昭和49年08月25日 朝の御理解
御理解 第18節
「此の方のことを神、神と言うが此の方ばかりではない。ここに参っておる人々が皆神の氏子。生神とはここに神が生まれるということで此の方がおかげの受け始めである。皆もその通りにおかげが受けられるぞ。」
お道の信心は皆も信者信奉者はこの御理解18節を頂いて、言うなら生神を目指して行くと言う信心姿勢をとらせて頂くそれが金光教の信心である。此の方の事を生神生神と言うが此の方ばかりが生神ではない、皆もその通りのおかげを頂かれる生神になれれる内容を皆が持っておるんだと思うんです。ですから自分の心の中に生神とはここに神が生まれると言う事と仰っるんですから、生神とは自分の心の中に生まれて来る、ね。
俗にあの人は生き仏様の様な人とか、生神様の様なとこう言う様な、そう言うならそう言う意味ではないんです、ね。生神とはここに神が生まれると言う事、生神とはここに神が生まれると言う事を教祖はいわれる、信心を段々頂いておりますとね、すぐ人間が変わってくると言う事は改まってくる。本気で心を磨かせて貰う事に精進する。今までかつて味おうた事のない心に喜びが躍動して来る、今まで言うなら人の足元ばかりが見えておった私がね、自分が心を見極めるようになる。
そうして自分の心の中にこういう汚い心、こういう浅ましい心があったんだよと気付かせて頂いて、それを改まる事に精進する。そういう精進を続けて行くうちにです、それこそ我と我が心が拝めると思われるような有り難い心が、時々ではあるけれども頂けるようになる、信心の楽しみというのはそれだと思う。お道の信心の楽しみはそれなんです。おかげを受けるという事が楽しみなら有難うならん。
自分の心が愈々生神へ向ってにじり出ると、我ながら自分で自分の心が拝みたい様な心を、時折ではあるけれども感じさして頂ける。こういう心を育てて行くと言う事がです、金光様の御信心。限りが無い一生である。言わばあの世までもやはり生神に向かっての精進と言うのがなされて行かなければならない。そう言う、それが信心である、ね。ですから、この御理解十八節は金光様の御信心をする者は言わば皆生神を目指さなければならないと言う事です。
おかげばかりを目指すのではなくて、生神を目指す。ここ2、3日ある教会の老人の方がまあ仏教にお参りをしておられる。それはそれは、本当に親孝行な息子さんだそうですけれども、お酒が入るともうそれこそ虎や狼と言うように変わられる。随分その方はそれは創価学会で、まあ、おばあちゃんとはまだ会わずにどっかすぐに出ておられ、そこからもう帰ってきなさらん。
そんな言わばまあ、お酒が入らない時にはまあほんとにこんな良い人がおるじゃろうかと言う大人しくてよか息子じゃけれども、お酒が入るともうどうにも出来ん。そこで嫁に対する不平もあれば不満もある、また、息子が飲んだ時のあの荒れ狂う姿と言うものを見る時にです。もうそれこそ自分にはないあのふ節制なものがあるだろうか、もう地獄の真中と言う様な感じである方のお導きで、とにかく合楽へ親先生にお縋りしたらと言う事を聞いてお参りをして来てる。
けどもその事をあたくし聞かせて頂きながら、お話した事でしたね、その創価学会になったら嫁さんが変わると言う事よりも、またはお酒を飲んで荒れる言うならば息子さんが変わるおかげを頂く事よりも、そういう例えば中にあってもです、言うならば自分の心の中に信心のこういう難儀の中にあっても、信心を頂いておるというおかげで、この様に私しは喜びが頂けれる、この様な気持ちでおれれると言う、「問題はあなた自身が助かる事が一番早かよ」と言うてやりました事です。
息子が助かる事よりも嫁が助かる事よりね。可愛い孫達が難儀をしておるのを見ておられないと言うね。ですから孫達を助けたい嫁も助けたい、息子も助けたいのが、まあ願いに来た願目かもわからないけれども、それはねさぁという訳にはいかんのだ。一番大事なはあなた自身が助かる事、そんならばあなたの心次第ではここへおいで、お参りになって御理解を頂いてね、心を開かせて頂いたらです、本当にこげな息子を持っとりますおかげでこういう尊い信心が分かしてもらえます、ね。
と言う風にです、ね、そう言う難儀を踏んまえてです、難儀の中からこういう尊い信心と言う風に尊い信心が分かして貰う、そこにあなたの助かりがある。息子を助けるでない嫁を助けるでない、孫が助かる事よりも、このおばあちゃん自身がまず助かる事が絶対早いです、ね。そしてあなたが助かってごらん、必ず向こうが助かる、必ず嫁が全部助かります、ね。孫たちも助かっていく道がそこから開けてくるから、と言うのは丁度この御理解十八節にあたるようなものです。
まず私自身が助かる事なんです、ね。これこれが一番早いです、ね。色んな難儀を持ってます、その難儀な事が成就すると言う事よりもです、ね、おかげを頂いたと言う事よりもです、ね、そういうよりもその難儀のおかげで、難儀にその「様」を付けさしてもらって、それこそこの難儀様のおかげで生神になれれるような素晴らしい信心を分からせて頂き、我ながら自分の心が拝めると言う信心、何て言う素晴らしい信心で御縁を頂いたもんだろうか、とお礼が言えれるような心の状態が生まれてくる時、ね。
その時にはもうあなたが助かっただけではなくてです、息子が嫁が孫達が助かってくる事はもう間違い無い。私自身が助かると言う事はね、おかげで一切がそれに伴うてくるのが信心、言わば生神を目指すと言う事は、生神様になってしまわなければならんという意味ではなくて、これはもう一生分かり、あの世に行ってもやはりその生神の境地と言うものを愈々極めていく事なのですけれどもね、生神を目指すと言うそう言う信心。そこで本気で自分自身、人を見ると言う事よりも自分自身に繋がる。
自分の心に繋げて、成程こういう浅ましい心こういう汚い心があっては、こういう難儀は当たり前だと言う風にです、感じさして貰う所からです、日々の日々の改まり、または信心によって心を清め改めさして、清めさして頂く楽しみ喜びがでけて来る、ね。そこから信心の教えと言うものがもう愈々尊い、有り難いものになって信心が楽しい、ね、いつまで合楽に参らんならんじゃろか、時々じゃなくて参らせて頂くその事が楽しゅうして楽しゅうしてと言う事になってくるんです、ね。
そこにおかげの全てが、いわゆるおかげの幸せの条件が必ず足ろうて来るというのが金光様の御信心。けれども今のようにそれこそ神様が先頭に立って頂くここ、2ヶ月あまりの合楽のこうもう毎日毎日奇跡の連続です。もう二言、三言必ず、まああたしがたまらんようなおかげを頂いておるのです。夕べも丁度9時の御祈念が終わってしもうて、もう9時25分にもうありましたでしょうか。丁度もうどん位になりましょうかあの方は、まだ80位でしょうか。
秋永先生のお導きでもうそれこそお得意さんだそうですけども、半年ぶりに初めて行かせて頂いたら、もうそれこそ家の中がてんやわんやしよるもん、「どうしたことですか」と言うたら、あたし昨日きかせて頂いたんですけども、2、3日前に娘さんが服毒自殺を図られた。それももうこげなべっぴんはまたとないと言う様な方がもう絶対死ぬ劇薬だそうですその毒薬は。それがまあ、あのその3日間あまりはもう、もう命というものが、まあ持てとったけども。
医者からもう愈々難かしかと言われた所で家の中がてんやわんやしよんなさる所。「はぁあんた昔椛目の時代にあたしが連れて参った事があろうがって、今合楽いっぺん合楽の金光様にはようとにかくはよう電話かけなさい」今なら親先生が座ってあるから、はよ電話をかけろと言うて、電話がかかって参りました。それこそもうもう皆が家中が取り乱しとるという。その毒薬のんだならば胃の洗浄でか何かで助かるですけどね。
この薬飲んだら例えば内臓が全ぐちゃぐちゃになってしまう毒薬だそうですね、だから助かるわけは絶対ない。所謂愈々時間の問題言うならばです、死人が蘇るような例えば助かりならば死人が蘇ったと言うのはこう言う事だろうと言う様な状態だと。それからお取次ぎをさせて頂いて、ね、それから御神米を頂けた。それから夫婦でもうそれはその足で1時間後にはここにお願いに見えました。それから段々おかげ頂いてからね、昨日もお話を聞くともうほとんど完全におかげを頂いた。
医者もたまがって「こげな事はもう初めてだ、もうこんな事は無い」って大体は。そこででもお医者さんが言われるのはです、ね、こういう例えば自殺でも図らなければならない何か原因があったじゃろうと。そこでそのご両親が言われるのが原因を突き止める事が、せっかく助かったっちゃあまた繰り返すような事があってはならんから、その原因を突き止めてその原因を、まあ改善してやらなければと言う事をお医者さんから言われてです、昨日お参りして来ました。
偶然だったから言うならまだ若い、ようやくまあ大学を出たばっかりであります娘さんがそういう事しなければならなかったと言う事はです、そこであたくしは申しました。「そう言う事を分かる事よりもね、もう言うならば無い命を神様が新たに注いでくださったと言うか、生まれかわらして下さった様なものであるから、これは神様の大きな願いがあってからの事に違いは無い。
この娘に神様の大きな期待があるからこそ神徳を助けて下さった、と思うたらね、安心も出来ましょうが、ね、ただおかげを頂いただけでなくて、私しは自分自身の事を話しました。私しも2歳の時に2回、無い命の所を助けて頂いた、もう5歳の時も5歳の時なんかもう愈々助からないと言われたのを、両親のまたは親戚の者の信心によって助けて頂いた。そこにいつも私しが思うのはです、私しが神様のこの大きな願いとこう大きな期待があるんだといっつも思うておる。
ほんなこっちゃ助けなさるはずなか。だから両親のあなた方が少し信心をさして貰うとです、そう言う不安はいりませんこの大きな神様の大きな願い、期待があるからこそない命をもう一遍また助けて下さって神様が、ね、お役につこうて下さろうとする働きがあっておるのだからそういう心配はいりませんよ、ね。だからもう少しまだ病院におります、来月までだそうですけども病院から帰ってきたら娘を一片連れておいで。
そしてあんた達がいかに折角両親でお願に来とるのだから、両親で信心の稽古をさしてもろうて、その事だけでは無いもうそれこそ( ?)と言う様々な難儀のおかげを頂けれるおかげを受けなければいけないと言うて、話した事でしたけれども、まあ安心とまではいかんでしょうけれどもです、ね。勿論その死ななければならないその根本をです、さぐるとか責めるとかと言う事ではなくてね、もうこの世に絶対必要なんであるし、また内臓がもうぐちゃぐちゃにならなならん筈がです。
ここもおかげを頂いて行って、もうほとんどおかげを頂いておると言う所まで来ておると言うのだから。やはり私しは皆さんがね、合楽に御神縁を頂いたと言う事は、しかも今合楽で、合楽示現活動運動と言った様な事が起こって、しかもこれを全世界地球上の人間にこの事を言うて、分からせよう分かってもらおう、と言う様なです、ね、大変な時期に御神縁を頂いたと言う事は、これは私の様な者にでも神様の大きな願いがかけられておるんだなという頂き方が一番間違いない。
今合楽に御神縁を頂いてる人達、神様の言うならば、良いと言われた選民である、言われたあたくしどもである、ね。神様の願いを願いとしてです、私しどもの願いとさしてもろうて、世の中に沢山の難儀な氏子があると言う様なものではなくて、もうほんとにです、地球上の人間も危機、もうまあ迫っておるような状態の時なのです。だから今合楽では25年間の沈黙を破ったようにして、合楽示現活動合楽を現さなければならん、合楽の信心を皆に分かって貰わなければならない。
と言うて一生懸命なっておるそういう言うならば大いなる時期にです、合楽に御縁を頂いたと言う事はですただ事では無いぞと、自分はこういう難儀な問題で参ったけれども、そう言う難儀な問題というそういう難儀な問題は小ぃさい事であって、もっともっと大きな願いにたっておかげを頂かなければならん。その為には愈々、本心の玉を磨かせてもらい改まらせて貰い、わが心が神に向こうて行く事を楽しみに、喜びに信心をさして頂くような信心を見に付けようと言う事にもなってくる、ね。
大学まで出て自殺しよる、大学まで出て悪い事をしたと、結局それはね今の教育の根本的な誤りがです、言うならば現代の地球上の人間の難儀になっておると言うても良いぐらいです。第一根本的にね教育が間違っとると思う、ね、是はどう言う事かと言うとです、ね、只々です尤物主義であったと言う事です。成功さえすれば金さえ儲かれば良い、ね。そう言う様な考え方、為にはしっかり勉強せにゃいけないぞ。
と言う事だけの教育であったね。そこでです私共が今一生懸命皆さんに聞いて貰おう分かって貰いたい事はですね、そういう尤物主義もまた大事ですけれどもそれに合間ってね、言うならば雄心主義。心を中心にしての主義、心を大切にしなければならないと言う主義というものと合間って行かなければほんとの教育じゃない。現代の教育はそれが欠けておるんだ。そんならその雄心主義とはどういう事かと言うと。
ただ心を大事にしておけばいいと言った様な事では無くて、雄心主義とはそこに神様をはっきり認めるという事だと。神様を認める、言うならば教育と言うものが欠けておるね。雄心主義とは神を認めると言う事、ですから言うなら皆さんが愈々神様の間違い無さを悟らしてもらい、神様の実在、しかもその神様がです、私共氏子一人一人にです、思いを懸けて氏子信心しておかげを受けてくれよと言う願いを、ね、神様は私し共に興じて下さる。あたくしどもに頼むように言うてごさる、ね。
そこで私し共がその信心をさして貰うと言う事はです、どう言う事か。ただ拝みさえすれば良いと言う事ではなくてです、ね、愈々我が心が神に向こうていくと言う、ね。生神とは神がここに生まれる事であると教えられるように、自分の心から神が生まれて来るような心の状態を作って行く事に、喜びを感じ楽しみを感じさして頂くようなおかげと言う風に、ね。それを私しは様々な難儀を踏んまえて、その難儀様のおかげで信心が出来ます、おかげで信心が分かります。
おかげでわが心が神に向こうていく事が出来ると言う様なです。先ず私し自身が、ね、助かると言う事を先決にしなければならない、ね。おかげは今の合楽じゃあ皆さんが合楽示現活動と言う、これは分かっても分からなくても今朝の御理解を頂きますようにね、自分が、ね、神様も分からなかったおかげも知らなかった、そのおかげを感じ信心が分からせて頂く、そう言う事をまた合楽で現れておる所のおかげを人に話して伝えて行く。それだけでそういう言わば一心発起が出来ておかげを頂いたらですね。
おかげはもう言うならば限りなく頂けているでしょう。けれどもおかげが頂けると言うだけではなくてです、わが心が神に向こうて行くと言うです、信心をさせて頂かなければいけません。ここでは言うならばね、この方がおかげの受け始め、皆もその通りにおかげを受けられると仰せられます様に、言うなら合楽教会では私し大坪総一郎がおかげの受け始め。だからそのおかげを頂いて行っておる、ね。
大坪総一郎の信心を聴教する、大坪総一郎の信心を見る、大坪総一郎の信心を頂くと言う事になったら一番、言わば目の当たりにそれを感じ取る事が出来るのです。「あぁああ言う行き方が神へ向って行くんだなあ」と言う、ね。最近まあ一つの区切りのような、大黒様がたくさんここから54体、55体出られる。まだ後20体あまり注文しておる、皆さんの都合で。所が昨日10体だけは送るというて通知があった。だから恐らくもう100体ぐらいはすぐに出来ると思う。それはどう言う事かと言うとね。
結局親先生を拝むと言う事に他ならないんですからね、大黒様を拝むと言う事は。言うならばですね、私大坪総一郎は無学の何も分からない、言うなら商人出のあたくしですけれども、別に知恵があって知識があってね、学問があってと言う事も何にも無いのだけれども、けれどもあたくしの心が誰よりもですね、神様へ向って近づいて行く修行を本気でさせて頂いておる所にですね、拝まれる元が出来てきよる。
それは私し自身が助かって行っておる。要するに自分で思いながらそれを感ずると。これが生神が生まれてくることだなと言うような思いを自分の中に合掌する事がとても有り難い。だからここでは矢張りそう言う信心を身に付けていくと言う事をね、精進と言うならそう言う精進をしなければならないという事であります。ただ奇跡だけが目当てではなくて、我が心が生神に向かって進んで行く。
生神とはここに神が生まれて行くと言うような信心体験を頂いて。愈々ね合楽示現言うならば活動に参加さしてもろうて、ね。そう言う例えば力を持つ、そういう光を持った人が示現活動に参画する所に愈々、明るい大きなおかげになってくると思います。ほんとにもう最近は不思議な事ですよ。おかげを頂いてからお参りをしてくると言う人が、昨日も今日私座らせて頂いたときですけれども。
松岡さん達親子それから3人の親子が参った。それが大変難儀な話をずっとその人が多少の意味でお話した所が、いっぺん合楽はこうこうだと話したらそんなら連れて参って下さいと言うので参った。その話その2日間の具合をね、聞かしてもらうともうほんっとに神様が救わずには置かん助けずには置かんと言う働きが、言うならあってあったと思う。その話だけでも今日もう聞かれて素晴らしいと思うんです。
あたくしいつもその4時に御祈念あって4時30分にさがらして、必ずそれは下がるんですけれども、昨日だけは私しがもうやんがて5時頃までお取次ぎしておった。そうしたらそこへ参った。私しが神様を助けずにはおかんという働きが始まっとるなと言う様に思うんですけれども、もうそういう働きがいっつも合楽であっておる時ですからそういう意味での助かりの道理にです、自分の心が助かると言う事に言うなら形のみの助かりと心の助かりが合間って行く様なおかげをね、頂きたいと思いますね。